日本酒市場が長きに亘り低迷していました。その背景は、日本が昭和30~40年代に戦後の食料難の時代から脱却し、原料米がある程度十分に入手できるようになり、高度経済成長期を迎え消費も旺盛になり、日本酒はかつてないその好況を背景にあたかも工業製品の様に増産を繰り返しました。その結果として日本酒の本来持っている「日本人の主食である米の恵みに感謝し、地域の文化としての酒造りを通した食文化を守り育てる」という重要な価値観より、大量生産、大量販売による生産効率やコストを優先にする酒造りが主流になってしまいました。それは取りも直さず、日本酒の魅力を自らが否定し、消費者からも敬遠される原因を助長したと思える状況が存在したのではないかと考えます。しかしながら、昨今の潮流は「食」と「文化」の両面から日本酒を見つめなおす動きが発生してきています。
弊社はこのような流れを踏まえ、今一度、会社として「地酒」にこだわり、「地酒」という新しい概念を弊社から創り、発信してゆくことが日本酒の再生を促すために必要と考えています。弊社の考える「地酒」の定義は「地域で育まれた原料(米)をその地域の技と気候風土で醸すこと」です。酒造りは本来、農業発展型の1.5次産業であり、地域の資源を磨き、魅力付けて、発信することがその使命と弊社は考え酒造りを行っています。
古来より「酒は災いを避け、笑門来福、日々榮える」と言われております。
文政年間創業の私どもはその「日」「榮」の文字を酒名にし、
育てていただいた地元石川に感謝し、
「地酒」を極めようとひたすら酒造りにこだわっております。
「地酒」と呼ぶにはその土地で生産された原料(米)をその土地の人・水・気候・風土で醸すことが
最低限の条件であると私どもは考えます。
「地酒」を極めるとはすなわち、「地」にこだわること。
「地」の恵みを十分に育むために、私どもは有機製造者の認証を取得しております。
中村家の先祖は、越中砺波郡若林村(現砺波市)の出身と言われています。
文政年間(1818~1829)に金沢に居住し、嘉永年間には金沢市小立野付近で紙商兼酒屋を営んでおりました。
現代表中村太郎の高祖父にあたる初代中村栄助が、金沢の豪商で米穀業兼酒造業を営んでいた高桑家から妻を娶り、酒造株を譲り受け明治3年に酒造業に転じます。
その後先々代である中村栄俊は、金沢市議会議員、金沢商工会議所会頭等を歴任し、金沢の政治・経済の発展に寄与して参りました。
また栄俊は茶道と美術をこよなく愛し、昭和41年5月に美術館を設立、昭和50年には金沢市に寄付移管し、今日の「中村記念美術館」(金沢市本多町)として多数の美術愛好者に親しまれ、金沢の隠れた観光スポットとなっております。
このように中村家と中村酒造は幕末から近代、現代にかけて金沢の歴史に深く携わって参りました。
霊峰白山を源とする水のうまさ。
山々で採れる山の幸。
豊沃な加賀平野が生み出す野の幸。
日本海の新鮮な海の幸。
四季の変化に合わせながら時々の旬を味わい、伝統行事が生活に色濃く残る金沢の食文化。
風土・季節・文化の恵みから生まれた加賀料理とともに金沢の地酒は育まれてきました。
日本の食に欠かせない「米」。
私どもの目指す酒は、その米本来のやわらかく、飽きのこない味わいをそのままに醸しお届けすることです。
日本有数の地元希少ブランド米「神子原米」(石川県羽咋市の神子原地区産)や石川県産有機米など、地元米にこだわるのはそのためです。
酒づくりの基本は良質な水の確保です。
白山を源とする名流手取川の伏流水はやや軟水で、その醸したお酒は穏やかに繊細な味わいを生み出します。
また当蔵は2000年よりこの水を100年後に残そうと化学薬品を一切使用しない散水濾床方式の廃水処理により地域に安心の排水を排出し、環境保全に取り組んでいます。
大吟醸酒造りの名手を多く輩出し、吟醸酒造りは「能登流が一番」といわれるようになった背景には、気候風土や食環境はもちろん、杜氏たちのたゆまぬ努力がありました。
「能登はやさしや土までも」といわれているように、純粋でねばり強い能登の人情が酒にも表れているのです。
そんな「能登杜氏」とともに、私どもは思いを託し紡ぎ合いながら、丹精込めた妥協のない酒造りに取り組んでいます。
事業本部
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